レイチェル

神奈川県の逗子在住。医師をしながら感情カウンセラー、一悟術ヒーラーをしています。
海が大好きでいろんな海を探索しています。西表島、宮古島が特に好きです。
旅行も好きです。

記事一覧(15)

忘れられない人③

ある時食道癌の男性を受け持ちました。彼は食道が癌でふさがりつつあり、固形物を食べることができなくなっていました。口にするのはドリンクの栄養剤です。彼のところに診察に行くと、いつも漫画が積まれていました。それは「美味しんぼ」でした。「いつもその漫画読まれているんですね。好きなんですか?」「うん、好きだね、食べることも大好き。」にっこりと笑いながら話していました。彼の病状はすでにかなり進行していました。このままでは食道は塞がってしまい、液体状のものも通らなくなります。病院ではステントといって金属製のコイルのようなものを狭くなった食道に入れる治療が考えられていました。いわゆるQOL改善目的の治療です。癌自体を治すわけではないけれども、できるだけ自然な形で食事が続けられるように考えられた対症療法です。彼は食道ステント留置術をしました。ステントは問題なく広がり無事に処置が終わりました。少しずつ用心しながら食事が始められました。その後、固形物がとれるようになり、一旦自宅退院ができるようにまでなりました。食べることが大好きだった彼が少しでも通常に近い食事ができるようになって私は嬉しかったです。しかし、ほんの1日で彼は病院に戻ってきました。大量の液体を吐きながら脱水状態になっていました。検査をすると、入れられたステントは癌によってぐしゃりと曲がり、機能しなくなっていました。内視鏡で食道をみると食事の残骸が残っていました。その中に小さな丸い白い物体がありました。ビービー弾といったら想像できるでしょうか。6mmほどのきれいな丸い形をしたものが残っていました。これはなんだろうと、吸引すると、裏がオレンジ色をしていました。それは蛋白変性して白色になっていたイクラでした。彼は一時退院してイクラを食べたのでしょう。胃まで到達できなかったイクラをみつけたのでした。その後病状は急速に進行し、彼は亡くなりました。私はやりきれない気持ちになりました。最後に食べたイクラは美味しかったかな。ほんの少しの時間であったけれど、少しでも彼の願いは叶えられたかな。そんなことを考えました。彼は幸せだったか、少しでも満たされた感覚があったか、本当のところは彼にしかわかりません。私にとっては癌の治療に対する考え方を考えさせられる経験でした。医療は死をコントロールすることはできません。生き方をサポートするにはどうしていくべきか私の中ではずっと課題でありました。どうなることが本人にとっての幸せか、どうなりたいか、どうすれば悔いのない人生になるか、これはこれからの課題であります。死ぬことを意識すると、どう生きたいか考えるきっかけになります。本当はみんなどう生きたいのでしょうか?美味しいものが食べたいし、暖かいお風呂に入りたいし、安心して笑っていられる仲間に囲まれたい。そんな些細な幸せを生きている時に大切にしていきたいです。

忘れられない人②

私は研修医を終えると、大学病院の消化器内科で働くことに決めました。きっかけは癌患者さんとの関わりです。癌治療を進めていくことへの難しさ、患者さんの精神的なサポートをどのようにしていけばいいかを学びたいと思ったからでした。ある時、とても寡黙で真面目な女性を受け持つことになりました。40代ぐらいだったでしょうか。独身で仕事一筋だったようです。彼女は胆嚢癌でした。すでに病名は告知されており、抗がん剤治療が開始されるところでした。病状説明も真面目にメモを取りながら聞き、静かにうなづいていたのが印象に残っています。彼女を受け持つことになり初めて挨拶をした時、ベットの上で正座をし丁寧に両手をついて、これから宜しくお願いしますと頭を下げられました。彼女には母親がいました。病状説明のときにも一緒に付き添っていました。彼女の母親がお見舞いに来ていたとき、ふいに私は声をかけられました。「うちの子は本当にいい子なんです。本当に真面目で、ずっと一生懸命仕事をして、私のことも気にかけてくれて。いろんなことを我慢して。だからね、本当に助けて、お願いね。本当にいい子なのよ。」私の腕を掴みながら何度も懇願するに言われたのでした。抗がん剤が始まりました。しかし、すぐに全身に発疹が出ました。抗がん剤による薬のアレルギーを起こしたのでした。同じ薬を使うことができなくなります。次に別の抗がん剤を使用しました。また、アレルギー症状が出たのでした。これ以上今の薬を続けることが危険な状態になってしまったのでした。彼女に事実を伝えます。また同時に肝機能もかなり悪化していたのでした。癌の肝転移によるものです。もともと手術ができないほど進行した胆嚢がんは治療法は少ないのです。次の治療となると今まで使用していたもの以上に効果の低いものになります。さらに肝機能が回復しないかぎりその治療さえ難しい状況となりました。そのうち黄疸という症状がみられ始めました。さらに胆菅炎という感染症を発症しました。もう抗がん剤の使用どころか命も危ぶまれる状態になりつつありました。私は何も言えませんでした。感染症の治療をすること以外西洋医学的なことはできない状態でした。眼球は黄色く、発熱のため黄土色の汗を流しながら、彼女にじっと睨まれます。低い声で唸るように私に「助けてくれると思ったのに。お前のこと一生恨んでやる。」重い空気が立ち込めていました。私は何も言えませんでした。どのくらい時間が経ったかわかりませんが、私はしばらくそこを動くことができませんでした。その後一礼すると、彼女の個室の部屋を出て、廊下を足早に歩き、日中誰も入らない当直室に逃げ込むように入りました。ベッドに座りこんで、ため息をついたと同時に涙が出てきました。自分に対しての言葉に傷ついてなのか、それとも彼女の気持ちを考えた時の辛さからなのか、よくわかりませんでした。ただ、人を恨みながら生きていくなんてどんなに辛いことかと思いました。でも私にはどうすることもできないのだと落ち込みました。私は何もできないダメな人間だと思いました。その後彼女は亡くなりました。彼女の母親は混乱以上に発狂に近い状態でした。親戚の女性も来院しました。あんなにいい子だったのに。どうして。口々に言いました。医者というと人はどういうイメージを持つでしょうか?病気を治してくれる人、手術をしてくれる人、精神的なサポートをしてくれる人、助けてくれる人、なんとなく怖そう、話しかけずらい、優しそう、頼れる感じ、金持ちそう、威張ってそう、人によって様々かと思います。私の中では人を助けるイメージ強くあります。それは病気だけでなく、精神的な助けもです。大学病院で働いていた時、自分の無力さをいつも感じていました。手術のできない状態の進行癌を完全になくしてしまうことは少なくとも当時の医療現場では不可能でした。西洋医学でできることは限られます。だからこそ、何をすれば人が治るという状態に近づけるのか模索していたように感じます。

忘れられない人①

それは私が研修医の時でした。指導医の先生と夜間の当直業務をしていたところ、外来に一人の女性がやってきました。まだ30代と若いのですが、顔色が悪く両足が象の足のようにパンパンでした。なんだか体がだるくて仕方がないし、足がどんどん浮腫むで歩くのも大変だということで早速検査をしました。すると、骨盤内のありとあらゆるリンパ節が腫れて、両大腿の付け根の血管を圧迫して血流障害を起こしていました。血管が腫脹したリンパ節で圧迫されているので血液がうまく流れず、両下肢の血流が鬱滞して浮腫みになっていたのでした。それに加えて血管に血栓という血の塊ができ、この血栓が剥がれた場合、一気に心臓から肺へと血栓が流れ込み肺塞栓症という病気になる可能性がありました。突然呼吸困難を起こし、場合によっては突然死の可能性が高く緊急入院となりました。血栓を慎重に溶かす治療と同時に腫れているリンパ節の原因検索となりました。すると大腸癌のリンパ節転移とわかりました。私が彼女の担当を受け持つことになりました。彼女は新婚さんで入院前、結婚式を挙げるためにダイエットをしていました。ですから自分が痩せていくことにあまり疑問を持っていなかった様子でした。足が浮腫んで初めて自分の異変に気がついたのでした。本人へ病名の告知前にご主人と面談することになりました。病名と今の状態に対する治療法と今後どういったことが起こる可能性があるかなどを指導医の先生が話していきます。私は横で立ち会って聞いていました。ご主人は黙ってしまって、動揺しているようでしたが、一旦じっくり考えさせてほしいとその日は彼女との話あいはせずに帰宅しました。しかしそれから彼と連絡が繋がらなくなってしまいました。同じ頃、彼女の元に彼の会社から彼が出勤していないと電話が入ったのでした。彼女が心配して彼に電話をすると自宅でひきこもってしまっていることがわかりました。すると彼女は自分の治療よりも彼のことが心配だから退院したいと私たちに訴えたのでした。そうはいっても治療中です。まだ血栓も溶けきれていないので、突然急変の可能性があるのです。血栓の治療のために今は帰宅できないことを伝えました。こちらの立場としては血栓溶解を終えてすぐにでも次の治療の話をしたいところでした。まだこの時点で彼女に癌の病名は伝えられていませんでした。その後も彼と連絡がとれず、仕方なく彼女の両親に連絡をすることとなりました。今後の彼女のサポートのためにも家族の協力が必要と考えた結果です。彼女の父親が遠方からやってきました。また指導医の先生が病名、現在の状態に対する治療法などを話していきます。すると、彼は何をやっているんだと怒りをあらわにしました。また、すぐに実家に連れて帰りたいこと、できないのであれば病名告知をしないで抗がん剤治療をしてほしいことを伝えられたのでした。現在は肺塞栓症のリスクがあり退院は危険であること、また当の本人が自分の病気を知らないまま入院を続けることは不信感を抱くことになることが伝えられました。抗がん剤は副作用がでることが必須です。癌の治療には本人への告知が必須となります。そして何よりも彼女の人生なので彼女がどうしていきたいかを尊重する必要があります。彼女の父親もまた動揺し、どうしたものかと悩み込んでしまいました。そしてその感情の矛先は彼女の夫に向かったのでした。その後治療の話は一向に進まず、責任問題について、彼との今後の関係性についての議論が彼女の父と彼の両親の中で始まってしまったのでした。こちらから彼女の治療や今後の話を進めて話してもすぐに脱線してしまいます。今の現状に向き合えていないようでした。私は研修医ではありましたが内心とても焦りました。入院している本人が置いていかれているようでした。そして何よりもこれほどまでに癌というものに対して人々が混乱し、治療に踏み切れなくなる様子を目の当たりにしたのでした。現在は癌治療自体に私は関わっていませんが、手術ができないほどの進行癌の告知する際に本人よりも本人の家族にあらかじめ伝えられていることが多いようです。この時もそうでした。本人にだけ告知し家族には知らせないでほしいという人もいます。様々ですが、とてもデリケートな問題としてあると実感しました。癌という病気のこと、手術では治らないこと、抗がん剤治療について、一度に多くのことを受け入れていかなければなりません。当然様々な不安が起こります。それは本人もですし、家族もです。様々に人の感情が絡みあいます。あの時こうしていればと過去を悔やむこともあります。これからどうなっていくのか未来が不安になります。こうした葛藤を経て誰しも治療をしているのではないでしょうか?何時間にも及ぶ家族との話あいの結果、告知に関しては我々から本人一人の時に直接することとなりました。彼女は涙を流しながらもやはりそうであったかと納得し、抗がん剤治療が始まったのでした。私はなんとなく申し訳ないような気持ちになりました。病名がなかなか伝えられないことに対して不安もあったでしょうし、自分の知らないところで何かが起きていることは察知していたと思います。私はパートナーのこと、家族のことをもっとうまくサポートできる方法はなかったのか考えてしまいました。この時の経験で、癌治療に対して様々なサポートの必要性を感じたのでした。それは癌の治療に対して、生きることに対しての心のサポートを模索する第一歩になりました。

生きること、死ぬこと

8年ほど前のことです。当時私は大学病院で働いていました。担当する患者さんの癌の告知の時、私はいつも緊張していました。多くの方にとっては現実を受け入れ難く、様々な葛藤をされますし、こちらに敵意をむきだすこともあります。医療者としてどう向き合っていくべきかとても悩んでいた時期でした。そんな中一度だけ、ある患者さんから「もう十分生きたから満足よ。」と言われたことがありました。その方は他に持病があるものの、とても元気な方で、医療者としてはまだ治療できるのではないかと思わせる方でした。いろんな経験もして、幸せに生きることができたとニコニコした笑顔で言われた時、当時の私は理解できませんでした。まだ生きることができるのになぜと思っていたのでした。医療に携わっていると、最期の時に医療の介入を望まれることが多いです。「苦しそうだから。何もしないのはかわいそうだから。なんとかしてあげたいから。」でも、本来自然なかたちで人が亡くなる時、必ずしも医療が必要とは限りません。医療が介入することで不具合が起こるもあります。かえって辛い時間を延ばしてしまうのでは、本人の望むことではないのではというようなことが起こることもあります。もちろん、本人、家族の方の選択なので、こうでなければダメというものはありません。ただ、死に対する認識の違いでその選択は変わるように感じます。その方にもきっと大変なことはたくさんあったと思います。それでも十分に生きたと言いきれる人生は本当に素晴らしいと思います。きっと充実していて、満足な人生であったのだろうと思います。ですから死に対して恐れことがないように感じました。死ぬことを意識すると、生きることに意識が向きます。多くの方は自分の死を意識した時、これまでの道のりに後悔を感じたり、これからの時間に対して不安、恐れを抱きます。その葛藤の中で本当に大切なものを見つけ出すこともあります。死を目前にした時、これからどうしていきたいという意識に向かうために適切なサポートをしていくことがこれからの終末期医療のサポートではないかと思います。もちろん、死を目前にしていない時でも本来の自分が満足のいく生き方にしていけるほうがいいです。そのためには、誰かのために、会社のために、周囲からの評価のためにではない、自分の本来望む生き方をしていけたらと思います。当時の私は、死に対して恐れや不安がありましたし、自分の人生に対して決して満足していませんでした。常に周りの評価を気にして行動していましたから、自分がこうしたいと思ったことができずにいました。もちろん、家族や仕事も大事です。でも最近多くの人は自分をないがしろにされていることは多いように感じます。今も満足とは言えませんが、生きてきた道のりを振り返った時に満足できたと思えるような人生を歩みたいものです。

私がこの仕事を始めたきっかけ⑧(一悟術ヒーラーになる)

一悟術ヒーリングを受けてしばらく経ったのち、一悟術のヒーリングの能力開発を受けました。

実は一番最初に一悟術の本を見つけた時、どういう訳か「自分は今後このヒーリングをやることになる」と感じていたのでした。自分にあったトラウマが解消され、溜め込んできた自分の否定的な思いが軽くなるにつれ、もっと自分のことを知りたいし、もっと自分のことをよくしていきたいと思いました。同時に、何が原因か気が付かずに苦しんでいる人達はきっとたくさんいて、本当はもっと自由になりたいと望んでいるのではと思いました。  私が一悟術ヒーリングを知る直前、大学病院で苦しんでいた時を思い返すと目の前の現実に苦しみながらもその時にできることを一生懸命にやっていたのだと思います。本当にいろんなものに囚われながら生きていました。「こうでなくては、こうであるべき、こうあってはいけない、」たくさんあったと思います。そんなしがらみの中、踠くほど苦しくなっていたのでした。完璧なものになろうと努力をし、そうなれない自分を否定し続けて、気がつけば周りにもとても厳しく当たっていたのだと思います。完璧な人間はいません。一人一人考え方や感じ方も違います。しかし当時はそんな考えは浮かばず、何をやってもうまくいかない自分がいて、いつも周りから攻撃されているように感じていました。「がんばってもうまくいかない、自分には何もなく生きる価値も見出せない」当時の私は自分のことが本当に大嫌いでした。ただ、自分がそうなった背景をトラウマや否定的な感情を解消していくにつれて、自然と過去の自分を受け入れていけるようになりました。悲しかったこと悔しかったことを感じつくし、当時の自分は本当はこうしたかったという思いを認めていくと、徐々に自分は今このように感じていて、こうしたいんだということに素直に思えるようになります。今自分の好きなことをしたり、リラックスして仕事ができたりしているのは、自分に対する否定的な思いが減り、自分のことが理解でき自分を信頼して生きることができるようになったからだと思います。ここ数年、ダイビングで沖縄や伊豆の島々を訪れたり、登山で各地の山を登ったり、ヨガを始めたり、旅行で日本各地や海外を訪れたりすることが多くなりました。様々な経験を通して私は自然に触れ合うことが大好きだと気がつきました。西表島で川下りをしていた時です。オールを漕がなくても川の流れに委ねてゆったり舟が進み、燦燦と輝く太陽と青空の下、時々聞こえる鳥の声を聞きながらぼんやりとしていました。すると突然自分が地球と一体になったような感覚を感じました。地球に生きる感覚がわかったように感じたのです。地球に生きるってすばらしいことなんだと感じました。そして何よりも海が大好きだと気がつきました。ダイビングも好きです。サーフィンも好きです。海岸でのんびりしていることも、お魚やサンゴを眺めることも好きです。ある時期から海の近くに住みたいという気持ちが強くなりました。思えば、ダイビングを始める時に葉山でライセンスを取ったのでした。始めは葉山周辺で物件を探しましたが、ここに決めようと思ったのがお隣の逗子でした。海があり、山もあり、自然が豊かで、すぐに気に入りました。引っ越したその日から、ここが今の自分の居場所だという安心感に包まれました。現在はクリニックで働きながら、自宅でのんびりと活動するようになりました。まだ引っ越して間もないのですが、住むほどにこの街が好きになります。正直都会ではないので不便なところもありますが、そこも含めて今の生活ができることが嬉しく思います。いま自分が本当にやりたかった理想的な生き方に徐々に近づいているのではないかと思っています。これからは、自分らしくいられる人が増え、それぞれに才能を発揮し、それを社会に循環していく世界に変化していくのではないかと思います。私は自分らしく地球を楽しんで生きる人がもっと増えていったらとても嬉しいです。

私がこの仕事を始めたきっかけ⑦(みつけた研究テーマ)

過去を振り返ると自分の経験してきたことから自分の進む道を再確認できることがあります。ふと大学病院時代を思い返すことがありました。それはなんとなく医局の同期と話していた時のことでした。大学院へ進むかという話題がでました。自分たちの1年先輩は全員が大学院に行くことに決めていました。そもそも大学病院に勤務しているわけでそれがなんとなく当たり前のような風潮がありました。私は考え込んでいました。その時点でこれがやりたいと思えるようなことがみつけられていませんでした。消化器内科では内視鏡などの技術を身につけ検査治療をしたり、抗がん剤治療などしていました。ですからそれに関するようなことについてが主な研究になっていきます。内視鏡での治療の研究であったり、癌の遺伝子についてや癌を起こすような感染症の研究などが対象としてあります。しかし、興味が湧きません。そもそも消化器内科に入局したきっかけが癌患者さんとの関わりで生きることをよくしていきたいといった漠然としたことだったのですから、研究に意識が向きません。同期や周りの人に話を聞いてみました。すると一応行く、親に言われたから念のため行っておく、箔がつくから行っておいたほうがいい、将来のためにそのほうが有利といった答えが返ってきました。一方で行かないと決めている人もいました。先輩の先生方からもいろんな話を聞きました。大学病院にいて大学院に行かないなんてナンセンスという人もいれば、自分の専門のこの研究なんかやったらどうだバックアップするぞといったことを話す人もいました。一方でもともと臨床現場が好きで、研究よりも診察を続けることに意識が向いている人もいました。また、しばらく臨床をして何かやりたいものが見つかった時に博士号をとるような方法もあるとも聞きました。結局悩んだ末、医局長に話すことにしました。「正直なところ、私は何の研究がしたいのかはっきりわかりません。やりたいと思うことが見つかっらないのです。医学博士になってどうなりたいかということも自分にはわからないのです。一応行くという気持ちにもなれません。」それでいいんじゃないかと言ってもらいホッとしました。結論としてそのまま臨床医を続け、何か自分にこれがやりたいといったことが見つかった時に研究することに決めました。その後、結局大学病院は辞めることになりました。今思い返すとこの選択をしてよかったと思います。私が本当にやりたかったテーマはおそらく大学院にいってもできなかったのではいかと思います。大学病院を辞めて数年後に気がついたのです。私はずっと生きることについて知りたいと思っていたのでした。何のために生きているのかに始まったことは、いつしか人が幸せに生きることについて追い求めているようになっていました。「人が幸せに自分らしく生きること」「自分が幸せに自分らしく生きること」それが一悟術を通じてみつかりつつあるような気がしたのです。自分が自分らしく幸せにに生きるようになった時、今度は周りの人も幸せになるサポートをしていくことをしたいと思うようになりました。ずっと患者さんと接しながら苦しかったこと、それがトラウマや否定的な感情の滞りから起こっていたことが多くありました。そうであれば、これからトラウマを解消して自分らしく生きる人が増えていけば、世の中が大きく変わりそうな気がします。私はどう世界が変わっていくかを研究していきたいです。

私がこの仕事を始めたきっかけ⑥(医師になろう)

ある時、こんなにトラウマに影響されていたのに私はなぜ父親と同じ医師になることを決意したのだろうと疑問が湧きました。自分のことなのにすっかり忘れているものです。すると塾での思い出がよみがえってきました。小学生から高校生まで通っていた不思議な塾は高校3年生で辞めることになりました。辞める時は母にはとても強く抗議し続けました。「私は勉強がしたいの。本当に勉強がしたいの。もう辞めさせて。」塾を辞めることとしては奇妙な理由でしたが、思いが伝わったのかやっと聞き入れられました。浪人することにして今度は自分で塾を選ばせてもらいました。そこは東京にある医歯薬学部を目指す塾でした。数十人の生徒がおり、通っていた人もいましたが、そこには寮もあり入ることにしました。親元から離れ以前のような緊張感はなくなりました。友人にも恵まれ、楽しく過ごすことができました。ただ、心の片隅にモヤモヤしたものが残っていました。なんとなく家族への罪悪感から医師になる道を進んでいるように感じていました。なんとなく勉強をし、それなりの結果を出すといった具合でした。周りのみんなもよく勉強していました。周りも親が医師であったり、歯医者さんであったりといった人がほとんどです。みんなそれぞれの大学を目指しているようでした。でもずっと不思議に思っていました。「みんな大学に行って、それぞれの職業について、それからどうしていきたいのだろう。目の前の目標があって、それを達成したら、そこからどんなふうになりたいのだろう。そもそもみんな何のために生きているのだろう。」何人か友人に尋ねてみましたが、不思議がられました。ある時、この先生であったらどう思うだろうと思う人が現れました。その先生は他の先生方よりも若く穏やかな男性でした。少し影があるような感じもあり特に女子の生徒に人気のある先生でした。東大の大学院生でアルバイトのため非常勤講師として夜の数学の授業をしていました。ある時、個別授業を受けていた時でした。思い切って聞いてみたのです。「私はずっと考えていることがあるんです。今は大学に行くために勉強をしているのですが、時々なぜ勉強しているのか考えてしまうのです。」「なんのために勉強しているのか。なんのために生きているのか。どうして生きることは辛いのか。生きるってそもそもなんなのか。そんなことばかり考えてしまうのです。」すると先生はそれに答えてくれました。「それは僕もずっと考えているよ。人間はずっと昔からそれを探し求めている。」それからプラトンであったり、ソクラテスであったり、哲学者やそれに基づく考えなどいろいろな話を聞かせてくれました。その話を夢中で聞きました。「そうなのか。みんな探しているのか。求めて生きているのか。」「それならば私も探してみよう。医師になって人はなぜ生きるのか、生きることは何なのか追及してみよう。」それがきっかけでした。そのことがあってからどんどん勉強が楽しくなりました。気がつくと常にクラスの上位になっていました。医師になることに対して前向きになっていったのでした。晴れて医師になった時、勉強してきたことがあくまでも知識理解でその先がずっと続いていくことがわかりました。なぜ生きるのかの旅がずっと続いていました。特に研修医の時に若くして末期癌と診断される人を受け持つ機会が多くなりました。それは一層生きることについて考えさせられるものになったのでした。

私がこの仕事を始めたきっかけ⑤(自覚していなかったトラウマ②)

またある時こんなことを思い出しました。子供頃、私にはある時期から土、日曜日の休みがなくなりました。土曜日になると、ある個人塾に行くことになりました。ある時、学校から帰ると母親から出かけるから車に乗るように言われました。駅で降ろされると一人の男性が待っており、その人の車に乗るように言われました。そのまま人里離れた山奥の家に連れて行かれました。その塾の周りには家が数件ありましたが、山に囲まれ他には何もないところでした。塾には、高校3年生が数名、浪人生とその兄弟である中学生がいました。全員でも10人に満たないぐらいの人数でした。私はその時小学6年生でした。塾と言っても授業があるわけではありませんでした。ひたすら自分で自習するといったものです。母親がどこからか、絶対に医学部に合格させるという先生の評判を聞きつけ、そこに通わせるようにしたのでした。その塾では土曜の夕方からだいたい夜の2時頃まで勉強し、そのまま泊まって翌日も朝から夜の10時ぐらいまで居続けるのです。おしゃべりなんかはありません。みんなひたすら押し黙って机に向かっていました。そこでは、ずっと緊張していました。私はひたすら同じ問題集を解いていました。先生はその塾以外に予備校の講師をしていました。一人の塾生から、かつて先生は高校の教員で暴力事件で学校を辞めさせられたと聞きました。英語が専門であったのか、先生は予備校などであった模試があると、高校生や浪人生に対して模試の英語の問題の解説をしていました。机を挟んだ横で罵倒する声がよく聞こえました。私が怒られているわけではないのにとても緊張しました。小学生の私にとってはずいぶん年上のお兄さんがガタガタ震えたり、泣いたりしているのを横で見聞きながら黙って勉強をしているフリをしていました。私は特に何か指導されることはありませんでした。一人でずっと自習を続けていたのでした。緊張しながらその場にいることが嫌で嫌でたまりませんでした。勉強しているようでちっとも頭に入りませんでした。また、先生はよくどこかに電話をかけていました。その声は怒鳴っていたり、脅していたり、かと思えばとても明るい声で営業のようなことをしていたりもしました。何をしていたのかは当時の私にはわかりませんでした。そこは塾というよりも脅されながら監禁されている場所のようでした。時々食事のために外に連れ出してもらえることがありました。そこではよく店員とトラブルになっていました。店員の態度が悪いとか領収書の書き方について腹を立てたりして、店長を呼び出し土下座させたり、逆に店から警察を呼ばれたりしました。そこに居合わせているのは苦痛で仕方がありませんでした。塾では数十分ほどの休憩時間がありました。その時間には何やら先生の雑談が始まるのですが、それもまた苦痛で仕方がありませんでした。予備校の講師陣や生徒をバカにしたり批判したりといった内容が多かったのです。周囲は笑っていました。笑っているのですが、とても不自然でした。そして先生がいなくなると、先生の機嫌を損ねないように私もみんなと合わせるように注意されました。塾は深夜にまで及ぶので子供の私には眠気との戦いがありました。しかしどうしても眠たくなってしまいます。眠そうな顔をしていると先生の機嫌が悪くなると周囲に言われた私は必死でした。この頃から私は肩こり、腰痛、足のむくみといった体の変化が出るようになりました。そしていつしか眠れない体質になりました。ある時は気が触れたように突然わっと泣き出した生徒がいました。ある時は突然何の連絡も取れずにいなくなってしまった生徒もいました。みんなストレスの限界だったのでしょう。多くの生徒は1年で辞めていきましたが、私はそこに何年か通っていました。本当は辞めたくて仕方がありませんでした。そもそも私にはそこに行く意味がわかりません。何度も何度も母親に辞めたい旨を伝えますが、一向に取り合ってもらえませんでした。「それは大変ね。そのくらいやらないとダメなのよ。いいから行きなさい。頑張りなさい。ちゃんとやりなさい。将来のために学校のみんなと同じことをしていてはダメ。今頑張れば将来とても楽になるから。」当時はあまりにも辛いので楽になるという言葉を信じるしかありませんでした。でもずっと母は騙されているのではないかと思っていました。その上、自分の思いではないとはいえお金をかけて塾に行かせてもらっていると思うと頑張らなくてはならないと思ったりしました。しかし、少なくともヒーリングを受ける前までに人生が楽になったと思ったことはありませんでした。それどころかこの苦しみはいつなくなるのかと思っていました。将来が楽になるとは何を意味していたのでしょうか。医師になることで経済面であったり、社会的地位が良くなるといった意味であったのかもしれません。確かに経済面は一般的にはよいのでしょう。社会的にも認められやすいのかもしれません。しかし医師になっても満たされた感覚は全くありませんでした。いつしか他人の顔色を見ながら行動するが癖になりました。仕事に対しても評価されるために頑張り続けていました。頑張っても誰からも認めてもらえず、人生に諦めのようなものを感じていたのでした。大人になって一見親と仲がよいように感じていたのは、辛かった過去を忘れなければ生きていけず、自分の中になかったことにしていたからだと気がつきました。過去の経験を思い出しながら、母親に対してもいろいろな思いが湧きあがってきます。自分のことを信じてもらえなかったり、気持ちを理解してもらえなかったことが思い返されます。悔しさ、怒り、悲しみが溢れ出てきました。私の人生こんなはずではなかったと怒りをぶつけたくなりました。思い出していくとトラウマになった出来事は他にも後から後から出てきます。過去の心の傷によってどれだけ大変な生き方になったかと両親を恨むこともありました。ただ恨んでいても過去は変わりません。溜め込んでいた心の傷を理解して、では今はどうしていきたいのか、どうすることが自分にとっての喜びなのかを考え直すようになりました。また過去の経験があったからこそ、自分の気持ちを押し殺す生き方をやめて自分の本当の気持ちを信じていこうと思えるようになりました。そして今はあの時両親は本当はどう思っていたのか改めて向き合いたいと思うになりました。ヒーリングを受けた後の私は自分の気持ちに素直になり、「こうなったら嬉しい。こんなことをするのが好き。こういうことが楽しい。」そういったことをどんどんするようになりました。すると体も心も軽くなり、やりたいことがどんどん見つけられ、今までできなかったことに挑戦できるようになりました。いつの間にか自信がつき、自分に対する信頼を持てるようになっていきました。仕事に対してもリラックスしていることが多くなり、集中が必要な時も過度な緊張をせず、言動が穏やかになったので周りの人からも安心して接してもらえるようになったのではないかと思います。周りに合わせることが癖になると、自分が本当はどうしたいのかがわからなくなることがあります。自分の意見を言えない人になるかもしれません。意見を言えない自分に苦しむかもしれません。傷つくのが嫌で悲しみや怒りなど感情を感じないように蓋をしていると、いつしか自分が何が楽しいのかわからなくなったりします。すると人生に何の意義がみつけられなくなってしまうかもしれません。知らないうちに我慢が重なりストレスで病気になることだってあるかもしれません。 子供はただ親の喜ぶ顔がみたい一心で親の言うことを聞くこともあると思います。それが自分にとっては辛くても言う通りにすることで親を喜ばせたいと思ったりします。親子関係は複雑なものです。本当は親だって子供に幸せになってもらいたいのです。親もまた過去に傷付いたり、うまくいかないように感じたことがあり、同じ思いをさせないようにと子供に対していろいろな思いを抱くのだと思います。でもうまくいくとは限りません。何かが複雑に絡み合い人生を生きにくくさせてしまいます。その原因の一つにトラウマがあるのではないかと思います。誰もが 本当に幸せな人生にするために、自分の傷付いた思いに気づいていき、何が自分の足かせになっているのか理解することが大事だと思います。

私がこの仕事を始めたきっかけ④(自覚していなかったトラウマ①)

一悟術を受け始めた当初はなんだか心がとても楽になったという感覚がありましたが、一体何が起きているのかわかりませんでした。一悟術ヒーリングはバーストラウマ、インナーチャイルドとよばれるトラウマのエネルギーを解消すると言われています。トラウマが解消されることで人生が生きやすくなるのです。しかし、私の中のそのトラウマが何なのかよくわからなかったのです。バーストラウマは出生時の心の傷と言われるぐらいなので、頭ではなんとなくそういうものかとわかっても自覚しにくいのかもしれません。しかし、インナーチャイルドは子供の時に負った心の傷なので思い返すことぐらいできそうなものです。一悟術ヒーリングを受ける前は、自分は家族関係は良好だと思っていました。仲のよい家族という認識でいたのです。ヒーリングを受けたり、感情の取り扱いを学ぶにつれて徐々に過去の出来事を思い返すことが多くなってきたのです。自分に湧き上がる否定的な気持ち、考え癖がパターン化していることに気がつきました。私はいつも人目を気にしていました。何か自分のやりたいことをしようとした時、言いたいことを言おうとした時、ふとよぎる思いがあります。「こんなことを言ったら怒られるのではないか。こんなことをしたら誰かを傷つけるのではないか。好きなことをしたら身勝手な人間と思われるのではないか。」さらに自分のなかに確固たる理想像がありました。仕事ができて、周囲からも信頼されていて、人間関係も良好な完璧な自分です。そして、その理想像になっていない自分は本当にダメな人間で、生きる価値がないとすら思っていました。「人よりも認められたい。そのために頑張りたい。」どうしてこんな思いがあるのか、よくよく思い出してみるとそれは両親に対する思いが関係していたのです。父親は町医者でした。子供の頃は朝起きて食卓で父に会うといつも機嫌が悪く、大きな音でバターンとドアを閉めたり、椅子を足で蹴りながらドカリと座ってため息をついていました。話しかけると、あぁ?と睨みながら機嫌悪く返されるので、家族の誰もあえて話しかけようとしませんでした。仕事でストレスがあるのでしょう。当時はそう思って、相手の機嫌に応じて対応していました。仕事が終わって帰ってきても機嫌はまちまちです。機嫌が悪ければ、それに応じて対応しなければなりません。機嫌がよさそうでれば、その時間が長く続くように努力していました。本当は楽しくなくても楽しそうに振舞っていました。そのため、同じ空間にいることがとても苦痛に感じていました。小学生の頃には私は食事以外では基本的に自室に籠もるようになっていました。テレビを見れば怒られてしまいます。ソファに座っていればそこで何をしているんだと言われてしまいます。くつろぐなんてこともできませんでした。自宅にいて安心していられるという感覚がなかったのです。静かに息を潜めて暮らしていました。ある時、友達を家に呼んで遊んでいた時のことです。かくれんぼで鬼を決めようとじゃんけんをしていると、「うるさいんだよお前ら」と例のごとくドアをバターンと閉めしながら怒鳴り込んできました。手に持っていた物を投げつけそうな勢いでした。友達は口々に「そんなに騒いでいないのに、レイチェルの家は怖い。嫌だ。もう帰ろう。」と言って帰って行きました。私には帰る場所がないように感じました。友達の家に遊びに行っても、「いつまで遊んでいるんだ。何をしているんだ。そんなことをしている暇があるなら勉強しろ。」特に宿題をやっていないという訳でもないのに、遊ぶだけで怒られます。いつしか「自分はこの家の子供ではないのではないのかもしれない。だからこんなにも嫌われているのではないか。」そんなことを思ったりもしました。成長するにつれ、おとなしく親にとってのいい子でいることが自分の中で普通であるかのようになりました。思春期の頃、友人がその時期特有の父親を嫌うような言動も自分にはありませんでした。そんなこと言うなんてひどいなと思っていました。一方で、言いたいことが素直に言える友人を心の底で羨ましいと思っていました。いつの間にか形成された自分の理想像は親から認められるための人間像のようでした。このように思い返していくと、子供の頃に自由に遊べなかったり、自由な言動ができなかったりしたことに対し悲しみが出てきました。「本当はやさしくされたかった。頑張っていることを認めてほしかった。もっと自由でいさせてほしかった。」自分自身を押し殺して生きていたことに気付き涙が出てきました。悔しくて、腹が立って、悲しくて、いろんな感情が湧き上がってきます。そのうち何かが溶けていくように、だんだん体が楽になっていくようでした。自分が大人になった今、親は子供に対してこうなってほしいという思いがあって伝えていたことがあると思います。また、親にもかつて子供時代にできたトラウマがあり、「こうであるべき、こうでなければならない」という思いを強く持っていたりします。自分がかつて辛かったことを正当化するために親の言うことに従うこと、苦労や我慢することが正しく、そこから逸脱してしまうことが許せなくなってしまうかもしれません。父親自身も子供時代に親に認めてもらうために頑張ったり、やりたいことを我慢していたように感じます。医師になってから数年後、何度か父親からいつになったらお前は仕事変わってくれるんだとイライラしながら言われたことがありました。その言葉に本当はもうこんな仕事したくないという気持ちが含まれているように感じました。本当に自分がしていて喜べることを子供にしてほしいという気持ちではないように感じました。ヒーリングを受けた後の私はそれを断りました。医師の仕事は好きですが、親の思い通りに生き、自分の思い通りにできない人生はもうたくさんだと思ったからです。父もまたトラウマを抱えていたのでした。父は小学生の時に通っていた小学校が火事になりました。仮設の施設で授業があったようですが、学業を心配した祖父は親戚の家に父を預けることに決めました。父は子供の時に親元を離れて暮らしていました。従兄弟が一緒で楽しいこともあったかもしれませんが、やはりそこで頑張らなければならないように感じていたのです。家庭のように寛げなかったり、子供のように振る舞えなかったのかもしれません。父自身が子供の頃どんな環境でどのように感じていたか、よく子供の私たちに聞かせていていました。とても苦労し頑張ったことを誇らしげに話していました。子供なりに仕方のないことだったと頭では理解していたのだと思います。ただやはり我慢してきた感情は残っているのでしょう。そのしこりによるものか、大人になってからも祖父母に対して高圧的になることが多くみられました。どこか両親のせいで自分の思い通りになっていないような怒りを込めた話し方をしていました。そんな父をみていると、トラウマの影響は親から子へと引き継がれているように感じます。

私がこの仕事を始めたきっかけ③(感情カウンセリング養成講座)

きっかけは忘れてしまいましたが、初めて岡村さんに会った時、私はこんな話を切り出しました。「私は感情の滞りが病気を作っていると思うんです。私はそれをよくしていく仕事がしたいです。」それは以前から感じていたことでした。ストレスが病気の一因であることは周知のことだと思います。私はもともと消化器を専門にしていたので、お腹が痛くて診察に来られる患者さんが多かったのです。患者さんの中には、仕事に行く途中お腹が痛くなって、会社に行くことが難しい方がいました。また、大きな仕事をしてホッと一息つけた途端に胃潰瘍になる方もいました。こういったものはストレスが原因であると言われていました。ではストレスとは何のでしょうか?ほとんどが自分の中にある否定的な思いであったり、否定的な感情の蓄積なのではないかと考えていました。例えば、職場の人とうまくいかないといった人間関係の悩みや、仕事に対する悩みであっても元をたどると自分の自信のなさから他人の評価が気になってしまうといったこともあると思います。「自分の言いたいことがいえない。上司の人の言いなりになってしまう。大事な場面でいつも緊張して失敗してしまう。本当は嫌なのに相手の顔色をみて言い出せない。自分ががんばっているのに認められていないように感じる。」こういった隠された思いがあたりします。診察していているとそういった悩みを聞くことがありました。病院でできることとなると、対症療法といって、その時にある症状に応じて薬を出すといったことが一般的には多いです。しかしこれはその場しのぎです。根本的な解決となると、まずそういった思いを解消していかなければならないと思っていたのです。その方法を自分なりに模索していたのでした。岡村さんと話をしてから1年後に感情カウンセラー養成講座が始まると聞き早速申し込みをしました。養成講座は一悟術の創始者の谷さんによって開かれたものでした。感情カウンセラー養成講座では、まず自分の感情を取り扱う訓練をします。カウンセラー同士ペアになって、自分の感情を相手に渡すことで自分のものではなく別ものにするというものでした。自分と自分の感情との適切な距離をとるのです。自分の感情を客観的にみられるようにするのです。少し不思議な感じがしますが、これによって自分の状態が把握しやすくなるのです。逆をいえば、自分の感情は自分のものとすればするほど、感情に飲み込まれてしまいます。感情に飲み込まれると言動に影響することは、ほとんどの人が体験したことがあるのではないかと思います。怒りが出た時に相手に(子供に、パートナーに)ぶつけてしまったり、不安になった時に普段しないような行動をとって失敗してしまったりといったことです。ですから、まずは自分と感情との距離をとり、見つめやすい状態にすることが感情への理解の一歩というわけです。講座では怒り、悲しみ、喜びといった感情などを扱ったりしました。初回の講座の時に、自分の中にある悲しみを扱うことになりました。私は過去の悲しかったエピソードを思い返し、相手に渡すようにイメージをしていくのですが、思い出すうちにどんどん涙が溢れて止まらなくなってしまいました。自分の感情から距離をとっているのになかなか自分の元から離れていかないかのように感じていました。悲しみと距離を置こうとしても、溜まっていたものがどんどん溢れ出すようです。私はずっとたくさんの悲しみを抱えて生きていたのでした。その中には、自分の中にある「こんなに頑張っているのに報われなくて辛い。」という悲しみがありました。何度かワークをしていくと、こんなにも頑張ってきたのに自分の人生がうまくいっていないと感じている人に対して、自分の悲しみが刺激されて、一緒に悲しむと癖があることに気がついたのです。実際、会社で部長をしていて自分にも他人にも厳しく家族を顧みずに仕事をし、ある時癌告知をされた時にこれまでの人生に対し怒り悲しみが出るような人などもいました。それまでの癌患者さんとの関わりは、相手がかわいそうとか、相手のことを思うと悲しいといった思いが背景にあったとのだ気がつきました。それは自分の中にある悲しさや辛さを相手に投影していたことによって起こっていたのでした。辛さ悲しさを共有しているような感覚になり、自分としては相手に対してとても親身になっているように感じていたのです。大学病院時代に自分なりに一生懸命患者さんの話を聞いていると思っていたのですが、実際には患者さんとの感情のやりとりで満足してしまっていたのかもしれません。ですから、お互いに辛い感情の中をぐるぐると滞留して、「ではこのようにしよう」という前向きな方向に話が進みまなかったように思います。それが理解できるようになると自分の感情に影響されず、相手を見守ることができるようになりました。相手が怒っていても、悲しんでいても、私自身が影響を受けることが少なくなってきたように感じます。その後も自宅でワークを実践していくことで、我慢して溜め込んでしまった感情が少なくなりました。また、日常生活で感情が湧き上がった時に、このワークを実践していくと少しずつ自分が今どう思っているのかがわかりやすくなりました。そして感情に囚われて行動する、行動できなくなるといったことが少なくなってきたように感じます。そして、2014年に感情カウンセラーに認定されました。

一悟術で変化すること

最近になってヒーリング、リーディングという言葉を目にする機会が増えたように感じます。ヒーリング、リーディングなど目に見えないことを扱う人が増えているように感じます。よくわからないがゆえに毛嫌いされることもあるかもしれません。施術者も治療ではないのである意味いい加減にできてしまうかもしれません。実際にセッションを受けてみて、何がよくなったかが受けた本人の主観(自分がどう思ったか)なので本当のところがよくわからないかもしれません。そういった疑問や不安が起きやすいものかもしれません。一悟術ヒーリング、リーディングではセッションを受けてどう変わったのか具体的に調査してみようという試みから、医療現場で用いられるWHO QOL26 取り入れています。これによって、自分の状態がどう変化したかを客観的評価できるようになりました。QOL(Quality of life)とは生活の質とも言われ、人がどれだけ自分らしい生活を送り、生きることに幸福を見出しているかを評価した尺度です。つまり、QOLが高いというのは、より自分らしく満足して生きているといってもよいのではないかと思います。WHO QOL26とは、主に医療現場で患者さんのQOLが治療前と治療後でどう変化したかを評価することに用いた評価スケールです。自分の体の状態、心の状態、周辺の環境、自分の身の回りの人との関わりなどを26の項目で評価しています。2017年にセッションを受けた人の評価の平均値を集計したところ、いずれの項目もセッションを受けた後、改善傾向にありました。その結果は今を生きる人から出版された本「一悟術」にも掲載されていますので、気になる方は参考になさってください。

私が今の仕事を始めたきっかけ②(一悟術ヒーリングとの出会い)

しばらくは何もせずにいましたが、1ヶ月後、大学病院の関連病院で仕事をすることになりました。以前より診療時間も短く、夜間の当直も週に1回と大幅に減り精神的にも肉体的にも楽になりました。ただ、心の中に大きな不安があり続けました。「私はこのままでいいのか。」この不安がなんとかならないものか探し求めるようになりました。本屋さんに行っては心理学、精神世界、スピリチュアルの世界などの本を読み漁りました。いろんなワークショップやヒーリング、レイキなども受けたりしました。そんな時に、とある一冊の本を見つけました。それは今の一悟術ができる前に書かれたものでした。その本は、ヒーリングを受けた一人の女性がヒーリングによって人生が変わっていく様子が物語形式で書かれたものでした。読み進めるうちに、このヒーリングとは何なのだろうと興味が沸きました。早速問い合わせの電話をかけました。電話口に男性が出ました。用田司という人でした。初めて会うその人はメガネをかけた穏やかで優しそうな人でした。その男性から一悟術ヒーリングを受けることになりました。体験ヒーリングを受け終わると、その日のうちに本セッションを申し込みました。それからは毎週仕事帰りにそこに立ち寄ることが楽しみになりました。そこでの時間はとても不思議な時間でした。何をするでもなく、特別な話をするわけでもなく、ただ椅子に座って目を閉じているだけでしたが、確実に何か重いものが取れていくようでした。毎週受けていましたが、時に何か思い出したように辛さや悲しみが訪れることがありました。「自分は周りの人のように仕事ができない。人と接するのが怖い。自分に自信がない。人からこんな風に思われるのが嫌だ。自分はダメな人間だ。人付き合いが下手だ。」今までフタをしてきたものが出てくるのです。「自分は要領よく仕事ができていないと思われているんじゃないか。こんなことを言ったら周りの人に嫌われるんじゃないか。疲れた顔をしたら暗いやつだと思われるんじゃないか。」しかし、不思議と以前よりも前向きになりやすいようにも感じるのです。そうかもしれないけど、それでもいいかと思えるようになったのです。また、出て来た悩みなどをヒーラーさんに相談しているうちに、心が軽くなっていく感覚がありました。何度かセッションを続けているうちに、気がつくと重たかった体も楽になっているようでした。少しづつですが、そんな変化が起こり以前よりも日常生活が楽しくなっていきました。環境が変わったことももちろんですが、新しいことにチャレンジしたり、余暇を楽しむ余裕がでてきて自分が元気になって何かを取り戻しているような感じがしました。そしてある日、一悟術の代表の岡村茂さんに会う機会がありました。